「コーチ」という肩書きを降ろす

コーチングを文化にするために

ここで私が問いたいのは、“コーチという職業”そのものではありません。

支援がいつの間にか「相手のため」ではなく「自分を支える手段」にすり替わる

——その危うさが、どんな領域にも起きる、という話です。

だからこれは、私自身への問いであり、

支援に関わる人すべてへの問いでもあります。

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気づけば
コーチングという世界に足を踏み入れて
20年以上が経っていました。

その技術を学び、仕事の中で実践し、
そしてコミュニティの中に身を置く。

コミュニティで生まれる独特の熱気を、
私はどこか少し距離をもって見つめてきました。

 

 

励まし合い、

お互いを「〇〇コーチ」と呼び合い、承認し合う空間。

そこには確かに、人を応援しようとする善意が満ちています。

けれど、その心地よさの中に長く身を置くほど、
私は言葉にしづらい違和感を抱くようになりました。

それは、現実の世界とは少し離れた場所で、
お互いの存在意義を確認し合う儀式のようにも見えたからです。

 

「私はここにいていい」
「私は価値ある何者かだ」

 

そんな切実な願いが、
そこには静かに流れているように感じました。

これは、誰かへの批判ではありません。
私自身の中にも、同じ欲求はあります。

お互いを励まし合う空間を決して否定しているのではなく、
それだけで完結してしまうことへの、静かな危惧です。

だからこそこれは、
コーチングという文化が内包する構造的な問いなのだと思うのです。

 

なぜ、私たちは「先生」になりたがるのか

医師、弁護士、会計士など、
高度専門職が「先生」と呼ばれることに、私たちは違和感を覚えません。

それはそれらが、社会的要請と責任、
そして公的な信頼の上に成り立っている
からです。

一方で、

コーチという営みは、社会の要請というよりも、
個人の内側の欲求から始まることが多いように見えます。

 

変わりたい。
認められたい。
誰かの役に立ちたい。

 

それ自体はとても自然で、健全な願いです。

ただ、

もしその動機を純粋に見ないまま
「肩書き」だけを先に持ってしまうと、支援がいつの間にか、
自分を支えるための手段にすり替わってしまうことがある。

私はその危うさを、何度も現場で体感してきました。

たとえば、相手は「分かりました」と言うのに、行動が止まる。

後から振り返ると、その場で必要だったのは助言ではなく、

相手が“自分の言葉”を取り戻すための沈黙と問いだった——。

支援がうまくいかないとき、問題はスキル不足より、

**こちらの“立ち位置(態度)”**に出ます。

 

自分の中にもその種(タネ)があることを知っています。

だから私は、自戒としてこの問いを持ち続けています。

 

私はいったい今、誰を支えているのだろう。
相手をか。自分をか。

 

私も、このプロセスを通ってきました

ここでひとつ正直に書いておきたいことがあります。

私は、国際コーチング連盟(ICF)のPCCと、
CTIのCPCCを持っています。プロフィールにもあえて記載しています。

実は、それらを
私は60歳を過ぎてから取得しました。

それまで私は、45歳頃から約20年、
経営者やビジネスリーダーの方々と対話を重ねる仕事を続けてきました。
これまで数えきれないほどの時間をコーチングで費やしてきたと思います。

60歳を超えたあるときのこと、
長年協働していたコーチの方からこう言われました。

 

「西邑さんの実績は十分承知しています。

これからの企業案件は資格があるとスムーズに進むので、

ぜひ機会があれば資格取得されると良いですよ。」

 

その言葉を受けて、なるほどと思い、
ほんの軽い気持ちで、コーチングスクールでの学びをはじめました。

ただ、
そこにいた参加者の多くは、30代・40代。これからの人たち。
60代の私は、そこでは明らかに異質な存在でした。

そして、何よりいちばん大変だったのは、
新しい知識の学び、というより、
それまでの自分に染みついた前提を一旦ほどくことでした。

学びを安易に捉えていた私にとって、
これは想定外でした。

 

「自分はできている」「自分はわかっている」

 

という自分を一度ほどき、

学び直し、組み直す、

いわゆるアンラーニングというもの。

あの数年間は、学びや資格取得というより、

 

自分という人間を完全にばらばらに解体し、
ゼロから再構築する時間

 

だったと思っています。

これまでたいてい試験や資格対応には自信がありましたが、
その自信は見事に失いました。

ただそのおかげで、小手先のスキルや技術でない、
自分自身という人間そのものを理解する貴重な機会になりました。

だから私は、資格そのものは全く否定しません。
むしろ、その学びや資格獲得のプロセスには人それぞれに大きな意味がある
と思っています。

と同時に、資格や肩書きは、
人を支える力にもなれば、
自分を守るだけの鎧にもなり得る。

その両方を、
私は自分自身の体験を通じて、自分の内側からじっくり見てきました。

技術ではなく、態度として

だから私は、あらためて

「コーチ」という名乗りは降ろす

ことを明言しよう、と思いました。

コーチングの本質は、スキルや資格ではなく、
その人の態度そのものにあると確信したからです。

 

相手をコントロールしないこと。
相手の人生の主体を奪わないこと。
相手の可能性を、こちらの都合で定義しないこと。

 

それは非常に繊細で、しかし根源的な姿勢です。

いっときの講座や試験だけで身につくものではありません。

長い人生経験や大きな失敗、
そして自分自身の真の弱さと向き合う時間の中でしか育たないもの。

だから私は、

「私はコーチです」と名乗ることで、
その深さをスッと平板化してしまいたくないのです。

 

水脈を読み、鉱脈を掘る人として

私がやりたい仕事は明確です。

人や組織の中に流れている


見えない水脈

——感情、恐れ、期待、可能性——

を読み取り、


その奥に眠る鉱脈

——まだ言葉になっていない才能や力——

を掘り起こすこと。

そのために必要な
コーチングの営みはこれからも続けます。

ただ、そのときの私は、
「コーチ」という呼び名ではありません。

私が名乗りたいのは、

ただ横にいるだけでなく、必要なら共に地下深くへ潜る
「リーダーシップパートナー」

 

です。これは肩書きというより、

そのとき、その瞬間の、

私が引き受けたい<態度>そのもの

なのです。

 

文化としてのコーチングへ

私が望んでいるのは、

「コーチ」という職業の人が増えることではありません。

 

経営者は、経営者として

親は、親として

教師は、教師として

 


それぞれの役割のまま、
人を信じる態度を真摯に生きている世界です。

そして、

コーチングがそれぞれの世界で文化になったとき、
それは初めて社会に根づくのだと思っています。

私はその一歩として、
今日から「コーチ」という名前ではなく、

私という人間のあり方で、
リーダーシップパートナーとして、


目の前の『あなた』と
真っ直ぐに向き合っていきたいと思います。

 

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