「その言葉、誰のために使われていますか」

── 対話の場が静かに閉じていく瞬間について

 

はじめに

ある場に身を置いたとき、
言っていることは間違っていないのに、
なぜか身体が少しだけこわばる。

質問をすると、場の空気が一瞬止まり、
「それはそのままの意味です」とだけ返ってくる。

説明はきっと正しい。
そして用語の意味も辞書的には理解できる。

だが、

なぜか安心して話せる感じがしない。

そんな違和感を覚えたことはないでしょうか。

私はコーチングやファシリテーションなど、
対話の場に関わる仕事を続ける中で、
この「説明は正しいのに、場が少し閉じる瞬間」に、
何度も立ち会ってきました。

今回その正体について書いてみたいと思います。

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言葉は正しいのに、なぜ違和感が残るのか

以前とある講座に参加したときのことです。

講座特有の進め方を説明する中で使われていた、
ごく普通の日本語(単語)が、

説明文の中にすべての前提として使われていました。

単語の意味はわかるし、理屈としても筋は通っている。

でも、その言葉を

普通の会話の中にそのまま放り込まれると、
違和感あり、どうにも身体に馴染まない。

どうも

英語を直訳しただけの日本語を、
何の説明もなしで“機械的操作音”のように使われているような感覚でした。

私は率直にその違和感を投げかけてみました。

「単語や言葉の意味自体はわかるのですが、
どうも少し違和感があって…。
どういうニュアンスでその言葉を使っているのでしょうか?」

返ってきたのは、少し怪訝そうな表情とともに、

「○○は○○ですよ。そのままの意味ですよ」

という答え。

それ以上、やり取りは続きませんでした。

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「わからない」のではなく、「馴染まない」

ここで大事なのは、
日本語の国語的な理解力の問題ではないという点です。

その後、別の参加者に声をかけられ、

話す機会がありました。

「先ほど質問してくれてありがとうございました。
私も同じ違和感あったのですが、
なぜか自分のほうがおかしいのかと思ってしまい、聞けなかったんです」

この言葉を聞いたとき、

私ははっきりと確信しました。

これは国語的な理解力や

単なる知識の差ではなく、

言葉と人との距離の問題だ、と。

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翻訳されない言葉が、場を閉じていく

例えば、

一般的に組織や企業にも、

独自の用語はたくさんあり、カタカナ語や略語も多い。

ただ、その都度、素直に聞いてみると、

「あっそれうちの社内用語なんですよ」
「すいません、社外の方には分からないですよね」

そう言って、

ちゃんと翻訳していただける。

一方で、

先ほどのようなコミュニティでは、翻訳が起きないことがあります。

素直に質問すると、

  • そのままの意味です
  • 使っていれば慣れます
  • まだ理解に時間がかかるのかもしれませんね

そんな返しで終わり、

その瞬間、場では静かに何かが切り替わる。

その言葉を自助努力で意味解釈できるかどうかが、
その場への「適応」や「信頼」を測る

忠誠の証になっているようにもみえる。

純粋に違和感を言語化することは、

「空気を乱す行為」
「未熟さの表明」
「異分子の介入」

のように扱われてしまい、

自責の念に駆られて盲目的になるか、

場との距離が少しずつ離れてゆくか、

その分岐に立たされます。

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言葉が記号になるとき

問題は、その言葉が

“人のふつうの日常の行為”から切り離され、
検証不能な狭い世界の前提になってしまうこと

言葉は

対話のための道具ではなく、
場への帰属を試す記号
になってしまう。

よくいえば「同志をつくる」
わるくいえば「村をつくる」

そこでは、

同じ言葉を疑わずに使えることが安心になり、
違和感を覚える感性は、静かに排除されていきます。

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対話の場が生きているかどうかの、ひとつの基準

私は、対話の場が健全かどうかを測る
とてもシンプルな基準があると思っています。

その場の言葉は、
初めて来た人の身体感覚に翻訳されるか。

質問したときに、

  • どういう意図で使っているか
  • 別の言い方をすると何に近いか
  • なぜその言葉を選んでいるのか

そうした説明が自然に行われる場は、外に開いています。

逆に、

言葉が説明されず、
「そのまま受け取れ」が暗黙に求められるとき、
場は内側へ、内側へと吸い込まれ、閉じていく。

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おわりに

言葉は、決して嘘をつきません。

どれだけ美しい理論でも、
どれだけ正しい説明でも、

その言葉から、
その人の意思や価値観、あり方が透けてみえ、

伝わります

素直な問いかけが歓迎される場か。
違和感が言葉になる余白があるか。
言葉が人のために使われているか。

それらはすべて、
その場が本当に開かれているかどうかを、
静かに教えてくれます。

そしてその答えは、案外いつも、
自分の身体がすべて知っているのかもしれません。